[00:19.992]その椅子は木で出来た丈夫な椅子 [00:27.719]こげ茶色のクッション木彫り花模様肘掛 [00:35.473]背もたれの両端には小さな赤い石 [00:42.880]それはそれは美しい木の椅子だった [00:50.593]その椅子を作ったのは椅子職人の爺さん [00:57.823]曲がった腰慣れた手つき鋭い目 [01:05.117]出来上がった椅子があんまり美しかったので [01:12.323]死んだ妻の名前をこっそり入れたのさ [01:19.701]店先に置いた椅子はすぐに客の目に留まり [01:26.799]やって来る客についつい爺さん「売り物じゃない」という [01:33.870]何人めかの客が来てしばらく話し [01:41.044]爺さんはついに言った「売りましょう」と [01:48.403]椅子は大きな屋敷の大きな広間に置かれた [01:55.300]毎夜止まぬ音楽と夢のようなダンスの日々 [02:02.729]主人はいつも椅子の前に座り椅子には [02:09.864]いつも美しいドレスの女が腰掛けた [02:31.731]時は砂のように流れ屋敷は古びてゆく [02:39.069]主人が椅子だけを眺める日々が続いた [02:46.354]美しいあのドレスの女は現れなかった [02:53.739]音楽はやみ主人は立ち上がった [03:00.117]ある朝椅子はたくさんの家具とトラックに乗った [03:06.927]椅子は海を渡る旅をした [03:14.402]揺れる揺れる船の底荒い波の音 [03:21.788]夜更けにかすかに聞こえるピアノのワルツ [03:29.296]少しだけくたびれた椅子を乗せて [03:36.747]旅を終えた椅子は一人暮らしの老婦人の元へ [03:43.891]いつもきちんとした身なりパンを上手に焼く [03:51.146]飼っている猫は灰色の老猫で [03:58.579]椅子の上に丸まって婦人の話をよく聞いた [04:06.147]話しはもっぱら夫の話 [04:09.225]もう十年もあちこち旅をしてる [04:13.226]愛しい人の手紙を少女のように猫に聞かせる [04:35.548]婦人の足が悪くなり日がなベッドで横になる [04:42.948]傍らにはいつも椅子と灰色猫 [04:50.533]何度も同じ手紙を大事に大事に読み返す [04:57.732]よく晴れた昼下がり眠る婦人の枕元 [05:05.324]一人の男が現れた [05:12.276]古びた椅子に座り古びた婦人の手を握り [05:20.035]そして眠る婦人にそっと口付けしたのさ [05:26.316]猫はナァナァないていた [05:33.214]古道具屋の暗い部屋でも椅子は人の目を引いた [05:40.849]めがね主人は丁寧に椅子の傷を取りがたを直した [05:48.126]クッションはここで赤い茶色に張り替えられた [05:54.740]よく笑う若い夫婦は一目で椅子に目をつけた [06:02.598]椅子は始めたばかりの小さなカフェの窓辺 [06:09.872]若い夫婦はよく働き椅子はいつもピカピカ [06:17.312]その年妻は子供を宿し [06:24.555]夫婦は抱き合って喜んだ [06:46.925]何度も壊れ直された足はちび肘掛は擦り切れたが [06:54.693]小さな赤い石はきちんと二つ光ってる [07:02.504]今ではもう五歳になった娘はやんちゃな悪戯っ子 [07:09.991]椅子の下海底ごっこ思わず目を輝かす [07:17.505]「何か彫ってあるよ母さん [07:22.255]ねぇ、素敵だわ [07:24.978]きっとこの椅子の名前だわ [07:28.394]わたしと同じ名前なのね」 [07:32.426]ニーナ!ニーナ! [07:35.470]娘は椅子をそう呼んだ [07:54.771]その晩椅子はいつもの窓辺 [08:02.588]夜空は水のように澄み切っていた [08:10.204]誰にも聞こえない小さな音が [08:17.740]椅子から溢れ始めた [09:05.248]カフェの常連 大きなお尻 夫婦の笑い声 [09:12.417]けんかの声 めがね主人の咳払い [09:19.238]埃っぽい古道具屋 老婦人のお話 猫の尻尾 [09:26.658]現れた男の涙 揺れる船の底 波の音 [09:36.001]ピアノのワルツ 大広間の音楽 絹のドレス [09:44.857]男の眼差し ショーウィンドゥの前行き交う人々 [09:52.552]木屑の匂い 力強い掌 しわがれた声 [10:06.626]「ニーナ」 [10:19.467]次の日娘が目を覚ますと [10:27.837]椅子は足が壊れて窓辺に転がっていた [10:35.575]夫婦は娘の髪を撫でた [10:43.877]「もうお疲れ様と言ってあげよう」 [11:07.768]その椅子を作ったのは椅子職人の爺さん [11:15.327]曲がった腰慣れた手つき鋭い目 [11:22.773]出来上がった椅子があんまり美しかったので [11:30.009]死んだ妻の名前をこっそり入れたのさ