第十八課 徐福渡海の謎 本文 徐福の人と業績については2千年以上も前に書かれた「史記」に記録されている。 「史記」の後からも伝えられてきた伝説は少なくない。 秦の始皇帝がろうや山に登ったとき、夢にまで見た「長寿の仙薬」が東海の中にある神山に行けば手に入ると聞かれ、 そこで、徐福に渡海を命じた。 徐福は博学多才の人で、航海、医薬まで学識の及ばぬところはなかった。 徐福の一行は海を漂流したすえ、ある島に上陸した。 一行はそこを開拓し、連れてきた少年少女を育てた。 そして、先住民族に農耕技術や医薬の知識を教えて尊敬され、ついにそこにとどまり、帰国することはなかった。 この話は中国でも日本でも長く伝えられてきた。 しかし、徐福とはいったいどこの人なのかについてはずっと謎とされてきた。 ところが、前世紀の80年代初め、中国で全国的な地名調査が行われた時、 江蘇省のじょふそんは昔徐福村だったということが確認されたそうである。 これがきっかけとなって、専門家が徐福村周辺の調査を進めた結果、 徐福の旧居や当時な造船場など多くの遺跡が見つかり、1985年に徐福村という名前が正式に復活したのだった。 このことが中国と日本で大きな反響を呼び、徐福の研究がブームとなったのである。 会話(座談会。出席者は中日の徐福研究者) 司会 大分春めいて、だんだん暖かくなってきましたが、この度、徐福会訪印象に残るところも多かったと思いますが……。 久武 私は久武と申します。実は徐福の52代目の孫なんです。 先祖の姓は徐となっておりました。 それがなぜ久武になったかというと、ご存知のように、日本にも戦国時代があったんですが、 その時に先祖が戦いに負けまして、世を忍ぶために、36代目の孫が久武の名乗りました。 ですから、私はれっきとした中国人です(笑い)。このたび、本当に親子が会うよな気持ちで中国に来ました。 佐藤 久武さんが私たちの気持ちを言ってくれました。 徐福は偉大な人ですね。2千年以上も前に農耕や紡績の技術を持ってきてくれたんですから。 そのご恩をいつまでも忘れず、日本と中国の友好を末長く続けたいと思います。 鈴木 徐福の古里で皆さんの熱烈な歓迎を受けて、中日両国人民の親近感を改めて体験しましたね。 嫁に行った娘が実家に帰ってきたような気持ちですね。 司会 秦の始皇帝の時に、徐福は少年少女3千人と多くの技術者を連れて。 神山と仙薬を捜しに海に出て最後に日本に着いたそうですが、これが事実だったとすれば、偉大な壮挙だったことは疑いありません。 でも、徐福はどうして東の日本へ向かったのでしょうね。 張 研究者の間には、二話あります。 一つは避難話。つもり、いつまでたってもも成果が上がらないので、徐福は始皇帝の懲罰を恐れて逃げてしまった。 もう一つは探検話。山東のあたりでは、始皇帝の以前から海の探検が行われていましたね。 ですから、徐福のことを「中国のコロンブス」と呼ぶ人もいますよ。 司会 では、日本に行ってからの徐福についてお話しください。 安部 日本には、徐福の上陸地の記念碑とか、お墓とか、徐福宮とか、その遺跡や伝説がたくさんあります。 高橋 私は富士山の近くにおりますが、ここでは、徐福は富士登山中に亡くなったといわれているんです。 神社では徐福を「医薬の神」として祭っています。 吉田 私は東京都の八丈島におりますが、島の人はみんな徐福の子孫だといわれていますよ。 徐福は85隻の船を率いていたんだが、暴風雨にあったので、散り散りになってね、 少女たちの船は八丈島に、少年たちの船は青ヶ島に流れ着いた。 司会 それじゃ、七夕様じゃありませんか。 吉田 そうなんですよ。神様のお申しつけで、青ヶ島の青年と八丈島の娘は毎年の春に一度だけ会える。 その時に、娘たちは赤い花をつけたわらじを編むんです。 それを海岸に置いてから隠れる。誰が自分の編んだ草鞋を履くか、はいた男が意中の人で、結ばれるんです。 春が過ぎると、男と女は別れなければなりません。 山田 寿福は秦の進んだ技術を日本に持ってきてくれましたね。 これが日本社会の生活向上と文明開化にどれ誰役に立った変わりませんよ。 ですから、徐福は日本で「農耕の神」「医薬の神」、「紡績の神」として祀られているんです。 西村 こんど来てみて分かったことですが、中国で徐福の出身地争いがありますね。 これは日本で徐福の上陸地争いがあるのと同じですね。 でも、それは大した問題じゃないと思います。 大切なのは徐福が日中文化交流の果たした役割と中日両国の深い関係を探ることでしょう。 谷口 西村さんの言う通りですね。 私たちは徐福の研究を通して、日本の国民に、二千二百年もまえに日中両国に親戚関係があったことを知らせ、 日中友好を長く続けたいと思っています。 司会 本日はおかげさまで、実りのある座談会になりました。どうもありがとうございました。 応用文 天平の甍―シナリオ ナレーション 「今から千百年前の天平年間、唐から高僧を日本へ招くという任務を与えられた留学僧一行は、半年かかって、やっと揚州に着いた。」 地図 雲崗か揚州に至るまでの道を、白い線で示す。 揚州・川の橋 普照たち、船から岸へ上がると、この国の商人や外国人の群れの中を通り、橋へ上がって行く。(音楽、終わる) ナレーション 「揚州は当時、海外貿易に栄える国際都市であった。」 道坑、立ち止まって指す 道坑 「寺は、あの丘の上です。」 大明寺の丘 道坑と普照たちが上がって来る。門の中へ入る。 鑑真の居間 こんてんぎなど珍しい物に鑑真の博学ぶりがうかがわれる。香炉から緩やかに煙が漂っている。 道坑の後ろに並んで座っている普照たち。 鑑真は今まで経典を紐解いていたらしく、広げられた一巻を静かに巻き戻していく。 道坑 「こちらが先程お耳に入れました、日本の僧たちでございます。」 栄叡 「奈良、興福寺の僧、栄叡と申します。」 普照 「同じく大安寺の僧、普照でございます。」 玄朗 「私も大安寺でしばらく修業しておりました、玄朗と申します。」 普照 「お弟子たちのうちより、ご推薦をよろしく……。」 と鑑真を見つめて言う。静かにうなづく鑑真。 講堂 集まっている弟子たち、30数名。 長老の座に座っている鑑真。 普照、栄叡、玄朗、道坑たち、その傍に座って控えている。 ナレーション 主だった鑑真の弟子たちが、各地の寺から集められた。 広く、ほの暗い講堂を、重苦しい沈黙が支配している。鑑真は、一同に静かな目を向けていたが、 鑑真 「……祥彦はどうだ。」 祥彦と呼ばれた僧は、顔を上げ、 祥彦 「日本へ行くには、広い海を渡らねばならず、百人のうち一人も辿り着かぬと聞いております。」 鑑真 「その海を、この人たちは渡って来ているではないか。」 徳清が鑑真に向い、 徳清 「しかし、大勢のものが日本へ渡るとなれば、国は許しますまい。」 普照たち、緊張している。 鑑真はしばらく口をつぐんでいたが、やがて、自分にも語り掛けるように、 鑑真 「お前たちも知っている通り、百十余年前、求法の熱に燃える若い玄奘三蔵は、 国の許しを得ぬまま、西のインドを目指して、長安を旅立った。」 聞いている栄叡たち。 鑑真 「ここにいる日本留学僧たちは、我が国の求法僧たちがインドへ向ったと同じように、 仏典と授戒師を求めて、わが国へ来られたのだ。この求めに応えて、だれか日本へ渡り、戒律の法を伝えるものはないか。」 鑑真は左右の弟子たちをかえりみる。 弟子たちは黙って答えない。 普照、栄叡たちは、息を吞んで弟子たちに目を注ぐ。 道坑「どうか、私と一緒に日本へ渡ってほしいのだ。」 普照 「どなたか、お願いします。」 栄叡 「(頭を下げ)この通りです。どうか日本へ、私ども一緒に、どうか。」 弟子たちはやはり口を開かない。 鑑真 「(静かに)法のためである。どんな困難があろうと、恐れてはならない。 ……お前たちが行かないから、私が行くことにしよう。」 鑑真の思いがけない言葉に、弟子たちは驚きのため、恐れたように、顔を上げ、やがて、打たれたように、首を垂れる。 単語 徐福 渡海 史記 伝説 秦 始皇帝 ろうやさん 長寿 仙薬 神山 命じる 博学多才 航海 医薬 学識 漂流 上陸 一行 先住 農耕 留まる 地名 江蘇省 じょふそん 専門家旧居 造船場 復活 反響春めく 山東 久武 孫 先祖 姓 戦国時代 世を忍ぶ 名乗る れっきとした 親子 偉大 末長く 実家 壮挙 避難 懲罰 逃げる 探検 コロンブス(Christopher Columbus) 上陸地 記念碑 お墓 神 祭る 八丈島 子孫 率いる 暴風雨 散り散り 青ヶ島 たなばた(七夕) 神様 申し付け 草鞋 海岸 隠れる 意中 文明開化 出身地 探る 谷口 天平 甍 シナリオ(scenario) ナレーション(narration) 唐 高僧 留学僧 揚州 雲崗 普照 上がる 群れ どうこう(道坑) 大明寺 鑑真 居間 こんてんぎ 博学 窺う 経典 紐解く 僧 奈良 興福寺 栄叡(ようえい) 同じく 大安寺 修業 玄朗 弟子 推薦 長老 座 控える ほの暗い 重苦しい 支配 祥彦(しょうげん) 徳清(とくきよ) 口をつぐむ 求法 玄奘三蔵 長安 旅立つ 仏典 授戒師 戒律 法 左右 顧みる 息を吞む 目を注ぐ 口を開く 恐れる 思いがけない 垂れる