[00:16.895] A子は死ぬ程愛しているB夫に、 [00:20.268] とある喫茶店で「別れてくれ」と言われた。 [00:25.516] 「僕はC子ちゃんという子のことを好きになっちゃったんだ。 [00:30.206] ごめんよ。悪いけど、別れてくれ」 [00:33.996] A子はガーンと、きた。悲しい。泣いた。 [00:39.008] 「な、泣かないでくれ、 [00:40.641] 君に泣かれると、つらい、やはり、うーむ」 [00:46.011] 偽りの愛の言葉を言うことは、もうできなかったが、 [00:50.771] B夫はやさしい男だったので、 [00:54.080] A子の悲しみを、少しでもなぐさめてやりたかった。 [01:02.189] 「……そうだ、お別れに、ねっ、 [01:05.422] お互い、大切なものをひとつ、交換しよう。 [01:09.534] で、記念に、ずっと持っていよう。ね、そうしよう。 [01:14.038] 明日、最後にもう一度ここで二時に会おう。 [01:17.811] そんとき持ってきてくれ。ねっ、ねっ」 [01:22.634] いつものA子なら、 [01:25.206] 「あっ、やっぱりB夫ってやさしいなあー」 [01:28.912] と、素直に思えたであろう。 [01:31.544] しかし、ふられた女の心理は、 [01:35.893] 普通の女の子を、呪われた悪魔に変えてしまう。 [01:41.883] もう既に、A子はB夫を憎み始めていた。 [01:49.068] A子は顏をあげた。 [01:53.013] 「……わかったわ。 [01:55.246] 明日、お互いの大切なものの交換が終わったら、 [02:01.209] 私はあなたをあきらめるわ」 [02:06.121] 「わーわかってくれたのかい、A子! [02:08.887] 君は僕なんかより素敵な男をさがして、幸せになっておくれ。 [02:14.469] それじゃ、今日はさよなら!」 [02:18.867] B夫はホッとして、逃げるように去って行った。 [02:23.427] その背中を見つめながら、A子はニヤッと笑った。 [02:37.462] 次の日の、同じ喫茶店。 [02:41.475] A子は少し早めに来ていた。B夫が、来た。 [02:50.092] 「やあ」「どうも」 [02:54.795] 「持ってきたかい?」「ええ」 [03:00.802] A子の目は、赤く充血していた。 [03:05.615] B夫は、やはり罪悪感に駆られ、思った。 [03:13.570] (ゆうべ寝ずに泣いていたのだろう…… [03:17.283] かわいそうだが、仕方ない) [03:20.862] B夫は振り切るように、 [03:23.631] 「さあっ、僕のは、これだよ。 [03:26.782] 父が昔、ドイツの骨董屋から買ってきてくれた古い萬年筆だ。 [03:33.543] とっても大切にしていたんだよ。でも、君にあげようね」 [03:40.537] B夫がさし出すと、A子は受けとった、 [03:46.562] 「ありがとう」今度はA子の番だ。 [03:54.713] 「私のは、これ」 [03:59.666] A子は、増々目を赤くして、白い小さな箱をさし出した。 [04:08.472] 「何だろう」「あけてみて」 [04:14.632] それは、あぶら紙に包まれた、A子の人さし指であった。 [04:23.496] 「ギャッ!」 [04:24.779] B夫は、眼球が落ちそうなくらい、目を見開いて、震えた。 [04:30.001] さらに目を充血させて、A子は言った。 [04:34.281] 「私の、大切なものよ、わかるでしょう。 [04:38.105] ゆうべ切ったのよ。いやー、痛くて痛くて」 [04:41.805] A子はもう、正気ではなかった。 [04:44.350] A子のその声は、いつになくバカでかく、 [04:47.569] そしてやはり震えていた。 [04:49.549] 「激痛ってこのことを言うのね。 [04:51.960] 家からこのキッサ店への道順もわかんなくなったくらいよ。 [04:55.125] でも、約束の一時間前に家出たから、 [04:57.937] 逆に早く着いちゃって、エへへへ」 [05:01.875] A子はもう、自分で何を言ってるかわからなくなって来た。 [05:05.867] そして、B夫には何も聞こえてはいなかった。 [05:09.319] ただ胸が速く鼓動を打つのだった。 [05:12.710] 「私ね、これないと、いろいろ困るんだけど、 [05:17.241] 大切なものって言うから、これをあなたにあげるわ。 [05:23.373] ないとほんとに困るのよ、大切なのよ、これ……」 [05:31.542] と、A子は白い箱の中味を指さそうと、した。 [05:39.708] 「あああ」B夫はうめいた。 [05:45.027] A子は指さそうにも、 [05:48.894] その指は、当の箱の中にあったのである。 [05:54.293] 「ほら、もう困るわ」